mitsukiのお気楽大作戦


手作り雑貨と原チャリ放浪と雑学で綴る、実践お気楽ライフ
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e0078674_18323640.jpg邪馬台国房総半島説というのがありまして、最初に聞いた時にはなんて暴走した説なんだろうと思ったのですが、よくよく調べてみるととても興味深い事がわかりました。
魏志倭人伝によれば、邪馬台国は投馬国から水行ならば十日、陸行ならば一月とあり、投馬国を近畿地方にあった国とするならば、その通りに進めば房総半島に到達するというものです。
卑弥呼の墓の候補に挙げられている千葉県市原市にある神門古墳群を訪ねてみたのですけど、出土した土器から3世紀半ばのものと推定され、卑弥呼が死亡した時代と一致します。
そして、いちばん大きかった4号墳(残念ながら現在は消失、あるのは5号墳のみ)は全長が48メートルで「径百余歩」の大きさに該当し、とりあえずは条件をすべてクリアしているのですが、それよりも興味深いのは、この古墳は纒向型前方後円墳といって、邪馬台国があった地として最も信憑性の高い奈良県桜井市にある纒向遺跡で見られる初期の前方後円墳と同じ形をしているのです。
纒向型前方後円墳はイチジク型古墳ともいい、その名の通り上から見ると前方後円墳の前方の部分が極端に小さくイチジクのような形をしています。
そもそも前方後円墳はどうしてああいう形をしているのかというと、諸説あるのですが墳丘に上るための径にも盛り土をしたのが始まりではないかという説が現在では有力で、纒向型前方後円墳はその初期の段階の様子を顕著にあらわしているというのです。
e0078674_1921620.jpgさらに面白いのは、纒向遺跡でいちばん古い纒向石塚古墳が造られたのは3世紀前半で、房総の神門古墳が造られた時期と大きめに見積もっても50年ぐらいしか違わないのです。
つまり、歴史の教科書に書いてある「前方後円墳は畿内で発生してから徐々に地方へ伝播していった。」という通説は間違いで、ある日突然、日本各地で同時多発的に作られるようになったというのが本当で、纒向型前方後円墳は北は福島県の臼ヶ森から南は鹿児島県の端陵まで、日本列島の広範囲にわたり、いずれも3世紀の造営が確認されているのです。
魏志倭人伝によれば、倭国大乱に疲れ果てた地方豪族たちは協議の結果、ひとりの女子を王にする事で譲歩の道を模索したとあるのですが、その記載が本当でなければ3世紀、全国一斉に前方後円墳が同時多発的に作られるようになった理由を合理的に説明する事は出来ません。
しかしいくらなんでも、そんなに広範囲な地域をそんなに短期間で掌握してしまうのはかなり無理があるように思えるのですけど、これも魏志倭人伝に、倭の民は漁業と貿易を生業とする海洋民族であると書かれていて、彼らの航海技術をもってすれば可能だったのでしょう。
考えてみれば、遥か遠い魏の都まで使者を送る事が出来たのですから、日本近海を縦横無尽に駆け回れるのは当然なのでしょう。
今まで多くの古墳を見てきましたが、決まって大きな川に面した小高い丘の上にあるのが特徴で、単なる墓ではなく、きっと船で行き交う人々にとって灯台の役目を果たしていたと思うのです。
前方後円墳が海上交通の要となっていたというのも全国で一斉に作られるようになった理由の一つなのかもしれません。
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by sweetmitsuki | 2011-11-20 19:01 | 古代史でポン | Trackback | Comments(4)
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Commented by antsuan at 2011-11-20 22:57
逗子葉山にある二基の前方後円墳も川の近くにある海からもよく見える丘にあります。
昔から大和民族は水軍をもち、若い男達はほとんど水軍に所属していたからこそ、陸にいて政や生活を守るのは当然女の仕事であり、必然的に王は女子が担ったのでありましょう。
そして、古墳は灯台の役目だけでなく気象台の役目を果たしていたと考えても面白いですね。
Commented by sweetmitsuki at 2011-11-21 06:05
あんつぁん
縄文時代のストーンサークルは天体観測をしていたらしく東西南北がきっちり揃っているのですが、前方後円墳は全部まちまちで、葉山の前方後円墳も一号墳は南西を、二号墳は西を向いていますね。
一号墳は東京湾、二号墳は相模湾を望む位置に造られているのですから、前方後円墳とは後世の人が作った言葉で、あれは横向きに見るのが定位置なのかもしれません。
Commented by saheizi-inokori at 2011-11-21 12:33
千葉に住み愛着もある人間として嬉しい説ですね。
そういえば千葉の女には○○をみせるな、という言葉があって千葉の女性はアクテイヴなんです。海女など、まさにそうみえます。
Commented by sweetmitsuki at 2011-11-21 21:17
佐平次さま
古代史とは関係ないので今までスルーしてきたのですが、房総は美女伝説の多いところです。
恋多き美女、珠名
房総版小町、手児奈
数え上げればキリがないです。
房総は古代史史上最大の謎である「国譲り神話」の舞台でもあるので目が離せません。
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