カテゴリ:史蹟で歴史のお勉強( 45 )

水戸黄門に学ぶグローバル時代の国防

e0078674_18485319.jpg江戸時代、日本は鎖国していて天下の泰平を貪っていましたが、実は世界では大変なことが起きていました。
1600年、イギリスはインドに東インド会社を設立、1619年にはオランダがインドネシアのバタヴィア(現在のジャカルタ)を占領、1641年にマラッカを占領、フランスも1672年にインドのポンディシェリを侵略、1688年にはシャンデルナゴルを支配下に置き、まさにアジア全体が風前の灯火の前にいたといってよい状況でした。
そんな中、どうして日本だけが、平和を保つことができたのでしょうか?
明治維新や太平洋戦争は、大事件でしたので記録が残っているのですが、このときには「何も起きなかった」ので記録が残っておらず、どうして日本が平和だったのか、今では日本人ですらわからなくなってしまいました。
当時の施政者といえば、TVドラマ「水戸黄門」でおなじみの徳川光圀が有名ですが、彼らがどうやってヨーロッパから日本を守り、平和を築いたのか、少ない史料を頼りに検証してみましょう。
まず幕府が乗り出したのは「繊維革命」でした。
当時の布は麻と絹しかなく、麻は丈夫ですが寒さを凌げず、絹は脆い上、大量生産できないから庶民の手には届かないものでした。
その両者の欠点を補うことができる繊維が木綿なのですが、当時の木綿は絹よりも高級品だったのです。
何故かというと、木綿というのは熱帯地方でしか育たないので輸入に頼るしかなく、当時は三河地方(現在の愛知県)で寒冷な気候に強い品種が細々と栽培されているに過ぎなかったのです。
これに着目した幕府は、木綿の栽培を諸藩に奨励したところこれが大当たり、日本は木綿の国内消費を自給できるようになります。
たかが木綿とバカにしてはいけません。
鎖国というとマイナスなイメージしかありませんが、着るものが自給自足できなければ、そもそも鎖国なんてできないのです。
今の日本がアメリカに頭が上がらないのも、自主憲法がないからではなく石油を止められたら国民生活が成り立たなくなってしまうからで、持たざる者が持てる者にイニチアシブをとられてしまうのは当然の成り行きで、この時日本が木綿の栽培に成功していなかったなら、ヨーロッパの覇権争いに巻き込まれていた可能性は否定できず、そうだとしたら自主独立、自存自衛を保てたのかどうかもあやういのです。
さらに幕府は「物産改革」に乗り出しました。
諸国の産物を総点検し、本草学を基に諸藩に食糧開発を促進させました。
醤油やお茶の普及もこの頃のことで、ですから水戸のご老公が諸国を漫遊したというのは、あながち荒唐無稽な物語でもないのです。
そして幕府が次に着手したのが「エネルギー革命」です。
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見よ!
そして畏れよ。これが究極の江戸からくり「淀式水車」です。
手前に写ってる人物と比べて、如何に大きなものかおわかり頂けるでしょうか。
これは千葉県の小櫃川にかけられていたもので、川の水を高台へ汲み上げるための装置です。
揚程15.2m、揚水量52m3/h、灌漑面積42haというもの凄いもので、これによってそれまで耕作に向かなかった野山が清水の溢れる水田になり、見渡す限りの大地が、眩いばかりに輝く稲穂で黄金色に染まったのです。
幕府の国防政策の締め括りが「軍縮」でした。
当時日本は世界最大最強最新鋭の鉄砲隊を持っていましたが、それをあっさり放棄してしまいました。
いつの時代にも、国防の最善策は軍縮なのです。
このような素晴らしい歴史を持っていることに日本人は誇りを持つべきです。
そして次の選挙では、食糧および商品作物の自給率向上とエネルギーの国内自給(人体に有害な物質を出さないものに限定)と軍縮を政策に掲げる政治家を選ぶのはいうまでもありません。
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by sweetmitsuki | 2013-05-12 20:13 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(4)

GHQが担いだ神様

前回紹介させていただいた二宮金次郎の事が気になったので小田原まで行ってまいりました。
小田急線栢山駅で下車し、駅でもらったイイカゲンなシンプルな地図(平成14年11月作成)を手に、迷いに迷いながら道草を楽しみながら金次郎の生家をはじめ、ゆかりの深い史跡を探訪。
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(清流にしか棲まない川トンボが多く飛び交う報徳掘。取水溝ではなく冷たい地下水を取り除くために作られた排水溝です。この工事で永年により苦しめられた冷害は除かれ、米の収穫が倍増しました。)
金次郎の生家から、彼が薪を背負って運んだ小田原城下まで歩いて散策するつもりでいたのですが、隣の富水で再び電車に乗り小田原まで。
どうも金次郎は「地元では名士」という訳ではなく地元の人も、大人になってから何をしたのかはよく知らないみたいです。
新しく引っ越してきた人が多いせいかも知れませんけど。
e0078674_2227321.jpgGHQのインデボーデン少佐は二宮尊徳を「私の見るところでは、世界の民主主義の英雄、偉人と比べいささかの引けもとらない大人物である。」「尊徳の考え方と、われわれ米国人が民主主義の基礎と思っている独立宣言書の核心との間に、いささかの開きも私には認められない。」「祖先のうちにこのような偉大な先覚者をもっていることは、あなたがた日本人の誇りである。」「尊徳の教えをあなた方の祖国日本再建のため用いることはあなた方の義務であると同時に権利でもあろう。」と大絶賛していますが、彼は強烈な反共主義者で占領期間中、日本のマスコミ(新聞・雑誌・NHKラジオなど)に君臨し、その絶大な権力を駆使し、反共思想の導入、レッドパージの強行などで辣腕を振るった事で知られていて、革命を唱えたり権力に逆らったりせず与えられたパラダイムの中で荒廃した村を復興させ多くの農民を救済した二宮尊徳は、アメリカの都合が良いように日本人の脳内を変革させるのに、うってつけの人物だったのでしょう。
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(小田原駅前にある金次郎像が読んでいる本の中身、難しい漢文ですが尊徳はこれを「譲って損なし奪って益なし」と邦訳しました。)
尊徳の教えは、やれば誰にでも出来る事ですが、やり遂げるのは並大抵ではない事ばかり。
「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。」 とはいいますけれども(economyを経済と翻訳・造語したのは福沢諭吉で、二宮尊徳の没後10年の事ですが、そんな細かい事を気にするのは止しましょう。)古今東西を問わず、宗教と金儲けが絡むとロクな事にはなりません。
具体的な例を挙げるとアブないのでしませんけど。
それを実践してみせたのだからやっぱし金次郎は全国の小学校に銅像が立つほどの偉い人なんですね。(二宮金次郎の銅像は戦時中金属が不足したため、国策として銅像の供出を命じられ赤いタスキを掛けられ『出征』し、武器弾薬に姿を変え『特攻』を遂げたため残っていません。現在あるのはその後作られたコンクリート製の像。)
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(お昼にいただいた小田原名産デラックスこゆるぎ弁当。「こゆるぎ」は地名の「小田原」がその昔この地域の名称「小由留木」を読み違ったところから始まったとされる説から命名されたそうで、では、「こゆるぎ」とはどんな意味なのかというと、そこまでは分からないそうです。)
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by sweetmitsuki | 2010-08-28 23:52 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(4)

何が遅かったのか

e0078674_106526.jpg東京・杉並区を流れる善福寺川の源流は、遅野井といいます。
その昔、源頼朝が奥州征伐のため、この地に軍を率いて宿り、氏神八幡宮に祈願し、無事征伐を終え、再びこの地に戻った際、折からの干ばつで軍勢は喉が渇いて困り果ててしまいました。
その時頼朝は弁財天に祈り自ら矢筈で地面を掘ったところ、忽然と水が湧き出し、軍勢は渇きを癒したのですが、水が出るのが遅かったため、遅の井と呼んだというそうです。(杉並区教育委員会 遅野井の由来より)
ところが善福寺川の流域からは、縄文時代の住居跡がいくつも発掘されていて、源頼朝が奥州征伐のためこの地を訪れる何千年も前から、ここは豊かな湧水に恵まれた自然のオアシスだったという事が、その後の調査により明らかになっています。
それではどうして、このような眉唾物の伝説が今なお語り継がれているのでしょう。
善福寺上池と下池をつなぐ横断歩道の下池側、交通信号の脇の方にある「橋供養佛」に、そのヒントが隠されているような気がします。(詳しくはコチラ
(↓善福寺池のカワセミ、鮮やかな羽の色がとても綺麗です。)
e0078674_127043.jpgもともと、善福寺川は氾濫しやすい川で稲作には向かず、江戸時代の初めごろまでは寂れた寒村だったそうです。
そこに関ヶ原の合戦で敗れた侍たちが、仕官の道を求めて集まってきたのですが、平和になったので召し抱える大名もなく、仕方ないから百姓でもしようと、ついに土着し、彼らの労働力の甲斐あって、善福寺川流域は開発され、村としての形が出来上がったのです。(杉並風土記より)
江戸時代の遅野井村の領主が今川家だったというのも大きなポイントのひとつです。
武蔵野の領地は、本来この地を支配していた北条氏から豊臣・徳川連合軍が小田原攻めで奪い取った土地で、領民にとって見れば、徳川の侍は憎っくき主君の仇敵ですから、大人しく服従する筈がありません。
そこで一計を案じた家康は桶狭間での敗北で滅亡した今川義元の子、氏真を召し出し、高家としてこの地を治めさせたのではないでしょうか。
今川氏の祖は、足利義氏の二男、有氏の子、国氏で、清和源氏の血を引く由緒正しい家柄です。
e0078674_11554528.jpgそれならば北条氏とも血の繋がりがあるのですから、領民も大人しく従ったに違いありません。
つまり、遅野井の伝説は「源氏の血を引く者こそが、善福寺川の水を利用する権利を持つ」という今川氏の主張が誇張されたものなのではないのでしょうか。
今川家の菩提寺観泉寺は今川範英(氏真の孫)の申請により慶安2年将軍家光より朱印状が下付され今の下井草2丁目16番地に成立しました。
現在も、このあたりの地名を「今川」と呼ぶのはそれに由来します。
ちなみに、屋台でよく売られている、今川焼という(関西では回転焼きとも呼ばれている)お菓子は江戸・神田「今川橋(今川善右衛門が架橋)」近くの店から売り出されたのがきっかけで、戦国大名の今川氏とは無関係だそうです。
     
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by sweetmitsuki | 2010-01-17 12:07 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(6)

鉄より堅いと自慢の腕に勝れし堅きは彼が心

e0078674_12122.jpg東京・板橋区の高島平という地名は幕末の砲術家、高島秋帆が日本で初めて西洋式砲術の演習を行った事に由来し、松月院というお寺には顕彰碑が建てられています(詳しくはコチラ

太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず

という歌が有名なのでペリーは何の前触れもなくいきなし現れたのかと思っていましたが、その13年前、アヘン戦争で大英帝国が中華帝国を破った知らせは世界中を震撼させ、日本人の耳にも入っていたそうです。
眠れる獅子、清国の大砲は旧式でイギリスの艦船まで届かず、まるで子供と大人の喧嘩のようだったと聞いた高島秋帆は、西洋式軍事技術の導入を幕府に訴えます。
江戸時代はおよそ250年の間戦争がなかったので、サムライの国でありながら幕末の頃には、軍隊と呼べるような組織や装備はありませんでした。(よその国ではいざ知らず、日本では軍隊の無い時代のほうが普通なのです。)
しかし洋式の機械を作る技術は、平和利用という形で継承されていたので、蘭学嫌いな幕臣たちに嫉まれ、投獄されるなどの妨害に遭うものの、弟子たちが上手く立ち回り、ペリーが品川に乗り込んで来た時、お台場から盛大な祝砲をボカンと鳴り響かせて出迎えるのには間に合ったのでした。
ちなみに国産砲の性能がどの程度だったのかというと、薩英戦争時にはイギリス軍相手にまったく歯が立ちませんでしたが、戊辰戦争では砲身が破裂する事故の多かった輸入品よりも高性能の物が作られていたそうです(詳しくはコチラ)。
さてさて、その後アメリカでは南北戦争がはじまり対日交渉どころではなくなるので、イギリスが替わって乗り出して来ます。
イギリスは日本の歴史を調べ、関ヶ原の合戦で敗れ徳川家に遺恨を持つ島津家、毛利家の家臣らに武器を与え日本人同士を闘わせ、そのスキに日本を乗っ取ろうとします。
インドでヒンドゥー教徒とイスラム教徒を闘わせ、そのスキにインドを乗っ取った伝統的な作戦です。
e0078674_1361860.jpgところがここは日出づる平和ボケの国、神代のいにしえより「和を以て貴しと為す」の条文が憲法にちゃんと書いてある国です。
坂本竜馬、勝海舟らの活躍もあって幕府のラスト・ジェネラル、徳川慶喜は、話し合いによって江戸を無血開城。大政奉還を行い、明治維新を迎えます。
徳川慶喜という人物は、歴史的にあまり高く評価されていないようですが、世のため人のために自分の持っている財産や地位、特権といったものを捨て去ることの出来る人が、果たしてどれだけいるでしょうか?
事実、アジア、アフリカ、北中南米のほとんどすべての国が同じやり方で国を乗っ取られているのです。
日本だって1933年、リットン調査団に人権侵害を指摘され国際連盟を脱退し、その後の戦争で国を失いかけたのは、満州での利権を失いたくないという欲得のせいでしょう。
先述のように、幕府は装備で薩長連合軍に後れを取っていた訳ではありません。
本気になって戦えば、勝利を収める事も不可能ではなかった筈です。
もし幕末に日本の政治のトップにいた人物が、目先の事に捉われて後世にまで考えの及ばない、どこにでもいるようなありふれた人物であったなら、日本はどうなっていたのでしょうか?
誇りのためにサムライは命を捨てられるといいますが、真のサムライは平和のために、その誇りをも捨てられるのでした。
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今日のランチは鴨南そばでした。
お蕎麦はせいろに盛ってつけ汁で頂くもので、温かいかけ汁のはうどんに限ると思っていましたが、鴨南蛮だけは別。
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by sweetmitsuki | 2008-11-23 12:14 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(4)

そこに私はいません 眠ってなんかいません

e0078674_1927460.jpg1970(昭和四十五)年に世界の著名な海軍提督の肖像画をデザインした24種類のビール(中身は一緒)がフィンランドで製造され、当然その中には、日本海海戦に於いて世界最強と謳われたバルチック艦隊を相手に完全勝利を収めたアミラル・トーゴー(東郷平八郎海軍元帥)の姿があるのですが、どういう訳かそれが、帝政ロシアに支配され酷い目に遭っていたフィンランドが、同じ小国でありながら大国ロシアと戦争をして勝った日本を讃えるために作られたものだというウソがまことしやかにささやかれ、ついには小学校の歴史の授業で語られるようにまでなりました。(詳しくはコチラ
実を言うと私も今の今までそれを信じていたクチで、小学校のテキストにまで間違った歴史事実が載っているのですから私がブログでウソ書いてもいいんですよね気をつけなくてはならないです。
このウソが、単なる勘違いによるものなのか、それとも我が国は間違った戦争なんかしていない、世界の人々がそれを讃えている、と主張したい人たちによって捏造されたものなのかどうかはわかりません。
それに、東郷平八郎英雄伝説が全て虚構なのかというとそんな事はなく、国連のガリ元事務総長は来日するたびに東郷神社を参拝していた信奉者でしたし(詳しくはコチラ)、トルコのイスタンブールには日露戦争の勝利を記念して造られたトーゴー通りがあります。
確かに地球上には、軍隊の力を借りなくては解決出来ない問題が、残念ながら存在します。
でも軍隊というのは、基本的に人を殺す組織ですから、誤った判断で誤った行動に出たら、結果的に無実の人間を殺してしまいます。
ですからタモガミ発言も「日本は悪い事なんてしていない。正しい事だけをした。」というのはあり得ないわけで「日本が占領地で行った残虐な行為は釈明の余地がないが、それでも戦後欧米列強の支配下にあった国々が独立するきっかけとなったのだからその事を今の若い日本人はもっと誇りに感じて欲しい。」ぐらいにとどめておけばそんなに叩かれることもなかったのでしょう。
ついでに教科書には載っていない、日露戦争がなぜ起きたかについて。

アヘン戦争に清国(中国)が負けて、日本も朝鮮(李氏朝鮮)も欧米列強との外交をどうするか真剣に考えなくちゃならないのに朝鮮では閔妃と大院君(国王高宗の妃と実父)が、内輪揉めの権力争いに明け暮れていました。それに怒った農民が反乱を起こしたので清国軍が出兵し、呼ばれてもいない日本軍までもが出兵したので日清戦争が勃発します。
戦争は日本の勝利に終わったのですがロシアの介入によって日本の要求はすべて退けられたため閔妃はロシアにすり寄り、結果日本に暗殺されてしまいます。
朝鮮を食い潰したマリー・アントワネットや西太后に勝るとも劣らない悪女、閔妃が日本に暗殺されたというそれだけの理由でどうして朝鮮国母と慕われているのか、私にはまったく理解できません(誰か閔妃が朝鮮国母と呼ばれるに相応しい立派な女性だったという論拠を知ってる人がいたら教えてください)。
e0078674_2113043.jpg言うまでもなく、日露戦争とは朝鮮の奪い合いだったのです。
そろそろ、「軍事について語る人=右翼」あるいは「平和について語る人=中国の言い分を鵜呑みにする人」というステロタイプな見方はやめにしませんか?
でないと、日本は永遠ににアメリカの保護国で不利な条約を押し付けられたまんまですよ。

写真は東京・原宿にある東郷神社、Z旗をあしらった御守りがカッコイイ。
以前はここでもトーゴービールが売られていましたが、上記の件で混乱をきたすとの理由で今は扱っていません。
ちなみに東郷平八郎元帥は乃木大将を神として祀る神社が建立され自分もやがてそのような神社に祀られると聞いて「そげな事やめて欲しかばい。」と懇願したのですが聞き入れられなかったようです。
私の~神社の前で~拝まないでください~♪

おまけ というか宣戦布告

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普段はあまり目立たないけど、秋になると俄然存在感を増すススキのお化けのようなこの草、子供の頃、友達も学校の先生も「らいおんじゃらし」と呼んでいたのでそういう名前なんだと思っていたのですがそれは私の住んでいたごく一部の呼び名でしかなかったようです。
本当はコルタデリア・リチャルディといいます。

あははははははは!
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by sweetmitsuki | 2008-11-16 19:54 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(8)

いざ言問わん

e0078674_14443917.jpgまだまだ残暑の厳しい季節の筈ですが、すっかり秋のような陽気になってしまいました。
所用があって昨日、向島方面に言問橋を渡って出かけたのですが半袖では寒いくらいでした。
言問橋とは面白い名前ですがこれは平安時代の歌人、在原業平が
名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
と詠んだのに因んでいるそうです。
しかし本当に業平がここでこの歌を詠んだのかというとそれは怪しいものです。
「伊勢物語」に書かれている「昔、男ありけり」の「男」とは在原業平のことだと古くから信じられていてこの話をすべて真実だとするのなら確かにその通りなのですが、「伊勢物語」とは人に読ませることを前提とした日記で要するに今で云うブログです。
ブログに書かれていることがすべて真実だとは限らないのと同様、「伊勢物語」もその辺の事は差し引いて読んだほうがいいみたいです。
「伊勢物語」によれば「男」は清和天皇の妃になることが決まっていた藤原高子と恋仲になり駆け落ちをしようとして失敗し、それで東下りをしてこの歌を詠むのですが、史実では業平がそのようなことで咎められたという記録はなく、藤原高子もちゃんと清和天皇と結婚し陽成天皇を産んでいます。
在原業平と言えばもう一つ、百人一首にも選ばれている
ちはやぶる神世もきかず龍田河唐紅に水くくるとは
という歌が有名ですが、これも百人一首というより落語のほうが有名なので、もしかしたらこの歌を「相撲取りと花魁の歌」だと間違えて信じている人がいるのかも知れません。
歴史というのは、単なる雑学で知っていても知らなくても差障りがないような事ばかりなのですが、知っていると色々な事が分かるので便利です。
例えば、明治になって日本は朝鮮半島を侵略しますが、どうしてそんな事をしたのでしょうか?
e0078674_15354091.jpg歴史を知っていれば答えは一目瞭然、明治維新で中心的な役割を担った長州藩士たちの先祖が豊臣秀吉の忠実な家来だったからです。
・・・すいません、今のは当てずっぽうです。こんなお人形が出てくるイイカゲンなブログに書いてある事を信じないでください。
私が何が言いたいのかというと、世の中にはウソツキがいる、という事です。かつて日本が戦争で世界中からフルボッコにされたのも「日本は戦争をしても神風が吹いて敵をやっつけくれる」というウソを信じさせられたからです。
振り込め詐欺に騙されるとお金を損しますが、歴史のウソに騙されると国を滅ぼしかねません。
ちゃんと歴史を勉強して真贋を見極められる目を養いましょう。
さて、言問橋と言えば言問団子ですね。(詳しくはコチラ
小豆餡・白餡・味噌餡の三つがセットになっていてどれも美味しいのですが、私は小豆餡が一番好きです。
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by sweetmitsuki | 2008-08-24 15:45 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(6)

鉢木

e0078674_1849870.jpg 謡曲「鉢木」で知られる常世神社に行って来ました。
群馬の地を舞台とする古典文学作品でもっとも有名なものの一つで、鎌倉時代の執権、北条時頼は旅僧に身をやつし、庶民が安寧に暮らしているか諸国漫遊の旅に出かけるという水戸黄門の元祖みたいな事をしていたのですが、大雪の夜、上野国佐野で佐野源左衛門常世のもとに宿を求めまして、常世は一族の不正の為に領地を奪われ窮迫の生活をしていたのですが心は腐っておらず、家秘蔵の鉢の木をたいて暖をとらせ、後に鎌倉からの召集に真っ先に駆けつけた時に、一夜のもてなしへの返礼として、時頼から梅・桜・松の名を持つ三つの土地を賜った、というお話で、戦前には教科書にも載っていたという程有名な物語です。
e0078674_1922811.jpgところがこの話はフィクション、つまり実際にあった出来事ではなく、北条時頼が廻国したというのはどうやら事実らしいのですが、(詳しく知りたい人はコチラ)「鉢木」には特定のモデルは存在しなかったんだそうです。
実際、JR高崎駅から徒歩ではちょっと困難な、新幹線の高架脇にある祠は、意外なほど小さく、地元の(歩いて数分の所に住んでる)人でさえも知る人は少なかったのでした。
佐野源左衛門常世には墓もあり、それは県を跨いで栃木県佐野市鉢木町にあります。
なんでそんなに遠くにあるのかというと、神社は隠遁していた時、時頼と出会った場所にあり、墓は報償として与えられた土地にあるのだそうです。なるほど、辻褄が合ってます。
こちらも行ってみましたが「佐野」という地名の由来になった領主とは思えない程の小さな墓でした。
行く前は「フィクションの、実在しない人物が神として祀られてるんて、どんな所なんだろう。」と、興味津々でしたが、そのあまりのぞんざいぶりに、戦前は教科書にも載り、忠孝の手本と讃えられ、「いざ鎌倉」の代名詞にもなっていた源左衛門さんが可哀想になってきました。(たとえ実在しなかったとしても)
e0078674_515717.jpg途中、立ち寄ったお店でラーメンを頼んだのですが、「創業八十年」「自慢の手打ち麺」の文字が大きく看板に躍っていたので期待したら、麺は素人が体験工房で打った方がマシなぐらい不揃いで、とても食べられたもんじゃありませんでしたが、手を抜いていい加減なものを出してるのではなく、店主なりに創意工夫を重ねてこの味なのですから仕方ありません。
こういう、都会じゃ絶対に食べられない食物を喉に通すのも、旅の醍醐味ですね。
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by sweetmitsuki | 2007-11-23 18:57 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(12)

アジアの純真

所用で品川・高輪界隈まで出掛けましたので、ついでに辺りを散策して参りました。
e0078674_175541.jpg白金台にある瑞聖寺は江戸で最初に開かれた黄檗宗のお寺です。
黄檗宗とは聞き慣れない宗派ですが、江戸時代のはじめ、明(中国)から伝えられた禅宗の一派で、見ればなるほど、反りの強い屋根の上には宝珠を戴き、壁には丸窓が設けられているなど、中国人が好きそうな、エキゾチックな印象のある寺院です。
ちょうどこの頃、中国大陸では大きな内戦があり、中華民族の大部分を占める漢民族の国、明が滅び、女真族(満民族)の皇帝の支配による清が起こり、戦禍を逃れ大勢の人々が日本を訪れています。
ですから、日本に布教するため、というよりは、帰化した人たちの拠り所としてのお寺という意味合いの方が深かったのではないでしょうか。
外国人難民の布教活動を認めてしまう権力者など、この時代、世界中探しても見つからないと思いますが、徳川幕府は耶蘇教外の宗教にはとても寛容でした。
『信仰の数だけ神様がいる。』という日本人独特の宗教感のルーツがここにあるような気がします。
e0078674_1738505.jpgお次は、忠臣蔵で有名な泉岳寺。
ここでもアジアつながりのうんちくをひとつ。
四十七義士のひとり、武林唯七孟隆重は豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、俘虜として捕えられ日本に連れてこられた明の医師、孟二寛の子孫です。
そのまま医師として日本に留まった二寛は、故郷の杭州武林にちなんで武林姓を名乗り、唯七は二寛の孫にあたります。
話は戻りますが、「○○の病に霊験あらたか」などと、現世利益に短絡してるのが多いのも日本の寺社信仰の特徴。
これは中国から来た、あるいは中国で勉強してきた僧侶が、同時に漢方医療も身につけていたというのが正解で、仏さまの加護によるものではないと思うんですが、鰯の頭も信心から。拝んで病気が治るなら安上がりってもんです。
それに、規則正しい生活は百薬の長といいますから、仏さまの教えは、やっぱし守った方が良いのでしょうね。
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by sweetmitsuki | 2007-08-26 18:13 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(12)

鉄の神様

e0078674_18363656.jpgJR総武線亀戸駅北口にある香取神社(HPはコチラ)は、大化の改新で知られる藤原鎌足の勧進によるものです。
素朴な疑問として、この辺りは江戸時代の埋立地で、その頃は海のど真ん中だったんじゃないのって気がするのですが、どうやらここだけ島だったようです。
それから、鎌足というのも変な名前ですが、これは農機具が揃っていてお米がザクザク穫れるという意味なのだそうです。
もともと藤原(中臣)氏は、茨城県の鹿島神宮(HPはコチラ)、香取神宮(同じく)周辺を拠点としていた豪族で、優れた製鉄技術を持ち、この地で豊富に採れる鉄を使った農具で広大な関東平野を耕し、莫大な富を築いていました。だから米足ではなく鎌足なのです。
ついでですが、首都圏近郊の海水浴場の砂浜がドス黒いのは砂鉄を多く含んでいるからで、汚れているせいだけではありません。
e0078674_19441781.jpg大陸から武器として伝播した鉄器ですが、日本ではもっぱら農具として使われました。この時代の戦記を読むと、椿の矛とか柊の矛といった武器が登場しますが、これは椿や柊を削って作った木製の矛で、どうしてこんな物を使ったのかというと、鉄は貴重品だったので、消耗品の矛にはもったいなくて使えなかったのです。
そんなみみっちい事やってて、戦争で負けたら元も子もないじゃん。っって思うのですが、民需を圧迫して軍備を増強し戦争に勝ったとしても、それは一時の栄華に過ぎず、やがては同じやり方で負ける日が訪れる。日本に鉄器を伝えた人々は国を滅ぼされた自分たちの経験から、同じ過ちを繰り返すまいと肝に銘じていたのでしょう。大和朝廷成立の際、少なからぬ血を流した日本人も同じ気持ちだったと思います。戦いに於いて礼節を重んじる、後に武士道と呼ばれるようになった哲学もここから始まりました。
今でも古い剣道場に行けば、鹿島大明神の掛け軸が掲げられているのを見る事が出来ると思います。
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by sweetmitsuki | 2007-03-09 19:55 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(9)

情けありまの水天宮

e0078674_219391.jpg安産、子授けに多大なご利益があるとして今なお多くの参拝者が訪れる東京・日本橋の水天宮(HPはコチラ)が壇ノ浦の合戦で入水崩御なされた安徳天皇を祀る社だという事はあまり知られていないようです。(私も今まで知りませんでた。)
天皇は皆、崩御したら自動的に神として祀られるのかというとそんな事はなく、むしろ明治天皇のように生前の功績を称え神社を建立するというのは古代の天皇(実在の可能性が薄い)を除けば日本史上極めて稀な事で、神として祀られている天皇といえば保元の乱に敗れ、流刑地で崩御なされた崇徳天皇など、タタリ神がほとんどです。
e0078674_21221962.jpg江戸時代、大名は屋敷に郷里の寺社仏閣を建て、江戸の町民に開帳しお賽銭を受けたり護符を売ったりして藩収の足しにしていました。江戸町民にしてもプチ旅行気分が味わえると、かなり賑わっていたようです。その中でも一番人気だったのが久留米藩主有馬家の江戸屋敷内にあった水天宮で、「情けありまの水天宮」という言葉が流行語になった程でした。
どうしてそんなに人気が出たのか、そもそも安徳天皇がどうして安産の神さまなのか調べてみたのですがイマイチ決め手となるものが見つかりませんでした。江戸で一番の神社といえば平将門公を祀る神田明神で、平家つながりで何かあるのかと思ったのですけど、あまり関係が無いようです。
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by sweetmitsuki | 2007-01-17 21:49 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(2)




手作り雑貨と原チャリ放浪と雑学で綴る、実践お気楽ライフ
by sweetmitsuki
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