mitsukiのお気楽大作戦


手作り雑貨と原チャリ放浪と雑学で綴る、実践お気楽ライフ
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妖怪天国

e0078674_4364934.jpg門前に蕎麦屋が軒を連ね、だるま市で賑わう深大寺(調布市深大寺元町5-15-1)には、深沙大王という聞きなれない神様を祀る深沙堂があります。秘仏なので見ることは出来ませんが、赤い体に髑髏のネックレスという、とんでもない格好をしています。
西遊記の中に登場し、三蔵法師を助けたというこの聞きなれない見慣れない神様が、何故祀られているのかというと、ここは昔、高麗からの渡来人が開拓した地だからです。
e0078674_4555344.jpg他にも境内にある釈迦堂には百済様式の白鳳仏があり、こちらは無料で拝観できます。名物の蕎麦もこのとき渡来人によって朝鮮から伝えられたといわれています。
e0078674_514573.jpg参道の入り口には妖怪ショップ「鬼太郎茶屋」があり、原作者の水木しげる先生の原画や、先生自ら世界中を訪ねて集めてきた妖怪グッズを見ることが出来ます。
e0078674_528169.jpgここでしか手に入らないレアなアイテムや、水木先生のふるさと鳥取の逸品も取り揃えてあり・・・あ、中世とは関係ありませんね・・・
関係ないついでにもうひとつ。
太子堂正面御拝の天井には幕末~明治の浮世絵師、河鍋暁斎の筆による竜の飛翔図が描かれています。暁斎の作品は維新の頃ヨーロッパに流出し、日本にはほとんど残っていないのでとても貴重な文化遺産です。
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# by sweetmitsuki | 2005-11-14 05:48 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback(1) | Comments(2)

天国と地獄

e0078674_1859989.jpgキリスト教世界にも『インフェルノ』があって、悪いことをすれば地獄に落ちるというのは世界共通のようです。地獄の事が日本で知られるようになったのはわりあい新しくて、平安末期の頃です。そういえば古事記や日本書紀には『黄泉』は出てきても『地獄』は出てきませんものね。源信という僧侶が書いた往生要集に、地獄のことがくわしく説明されています。
鎌倉時代になると地獄極楽や閻魔大王への信仰は大流行し、各地に閻魔さまを安置する寺が作られます。
閻魔大王は本当は道教の神様なのですが、地蔵信仰と結びつき、仏(?)として扱われています。道教とは中国から入ってきた宗教で、インドで生まれた・・・これじゃ仏教と変わんないか・・・よくわかりません。
e0078674_1928495.jpg東京ドームの裏手にある源覚寺(文京区小石川2-23-14)には鎌倉時代に造られたとされる木製の「閻魔王坐像」が安置されています。
あたりは高層マンションが建ち並び、閻魔堂も新しく建て替えられたもので、中世の雰囲気を満喫することはできませんが、運慶派の流れを汲む、彫刻美術品としても優れているこの像、社務所でお願いすれば無料で見せてもらえます。
こんにゃくを供えるとご利益があると信じられていて、群馬で農業をなさっている方が、畑で採れたばかりのこんにゃくをお供えしていました。聞けば新田壮のご出身だそうで、太平記の話題でしばらく盛り上がりました。
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# by sweetmitsuki | 2005-11-12 19:34 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

わかりやすいって素敵!

e0078674_1619764.jpg西遊記で有名な玄奘が天竺から持ち帰り、弘法大師が日本に伝えた仏教の経典は、「形のあるもの 現象というものは 時々刻々変化するものであって 変化しない実体というものはありません 実体がないからこそ形をつくれるのです 実体がなくて変化するからこそ 物質であることができるのです…」(柳澤桂子著、生きて死ぬ智慧 心訳「般若心経」より抜粋)という、とても難解なものでした。
鎌倉時代になると『ただお題目を唱えるだけで良い』という教えが広まり、これまで専門的な知識や時間に余裕のある人しか出来なかった仏教の信仰が、誰にでも簡単にできるようになります。
e0078674_16522530.jpgブログの出現によってインターネットがお気楽に楽しめるようになったようなものかしら?(違うかなぁ。)
e0078674_16525844.jpg池上本門寺(大田区池上1-1-1)は、そんな鎌倉時代を代表する仏教、日蓮宗の開祖日蓮が入滅した地に建てられた寺です。参道に続く商店街の喫茶店で、名物のくず餅を食べました。くず餅って元禄年間に池上で作られたのが最初なんだそうです。
『法華経を信じ広めさせるのは難しい』という意味の此経難持坂と呼ばれる急な石段を上ると仁王門が見えてきました。
残念なことに、1945年の空襲で建物の大半を消失してしまいましたが、五重塔や宝塔などは奇跡的に焼け残り、これら江戸期に作られた建物は今でも見ることが出来ます。
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# by sweetmitsuki | 2005-11-12 17:07 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

お金が増える魔法の泉

e0078674_13393659.jpg元との戦いで幕府は御家人に充分な恩賞を与える事が出来なかったため、御家人救済のため徳政令を出して、借金で失った御家人の領地をただで取り戻させようとした。しかしそうなると、御家人に金を貸す者がいなくなって、かえって御家人を苦しめる結果になった。(扶桑社刊、新しい歴史教科書より抜粋)
大抵の歴史の本を読むと、貨幣経済が成立したのは江戸時代に入ってからで、それ以前(例えば楽市、楽座)では物々交換だったと書いてあります。つまり鎌倉時代には、貨幣は流通していなかったわけで、なのに御家人は借金に苦しんでいただなんて変だなと思っていましたが、調べてみるとこの時代のお金は中国から輸入した銅銭で、幕府が造幣したものではなく、正確には単なる貴金属だったんですね。
それでも領地を御家人が失うほど、絶大な力を持っていたことは確かなようです。
e0078674_144987.jpg鎌倉には銭洗弁天という、ここの霊水でお金を洗うと、何倍にも増えるという言い伝えがある社があります。源頼朝が創建し、北条時頼が福銭を清めたのが由来とされ、都内では三鷹の井之頭弁天に同じ御利益があるといわれています。もちろん信仰は、貨幣経済が発達した江戸時代になってから流行ったのでしょうが、奈良や京都ではなく、貨幣経済が産声を上げた鎌倉にこういう信仰があるのが面白いです。この霊水、源泉掛け流しでないと効果が無いらしく、ペットボトルに入れて持ち帰る人はいませんでした。
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# by sweetmitsuki | 2005-11-06 14:06 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

タタリ神義興

e0078674_4465985.jpge0078674_4471254.jpg大田区矢口1-21-23、第二京浜に架かる多摩川大橋と環八とガス橋と多摩川にちょうど囲まれたあたりにある新田神社は、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞の子義興を祀ってます。
義興は義貞死後後醍醐天皇の南朝の武将として活躍するも、この地に程近い矢口渡で足利基氏と畠山国清によって謀殺されます。
ところが、基氏に加担した江戸遠江守はここを通ったとき、雷に打たれ落馬し、義興の亡霊に責められる幻覚を見ながら七日後に狂死してしまいます。
その後も謀略に参加した者達が次々に変死し、300を超える家屋が落雷により消失したので、村人は義興のたたりだと恐れ、祠を建てて祀りました。
現在の社殿は明治神宮の旧本殿を移築したものです。
e0078674_58185.jpg境内には畠山一族の血縁者が来るとうなり声を上げたという狛犬があります。また、江戸氏の所領喜多見の人が参拝すると鼻血を出すとつい最近まで言われていました。e0078674_5162234.jpg
更に社殿後部には義興を埋葬した直径15メートルほどの塚があり、この中に入ると必ずたたりがあることから「荒山」「迷い塚」などと呼ばれています。
また、ここには昔から決して神域を越えることがない不思議な篠竹が生えていて、江戸時代に平賀源内がこれで「矢守」を作ったのが破魔矢の始まりなんだそうです。
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# by sweetmitsuki | 2005-10-31 05:31 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback(1) | Comments(0)

智明蟄居録

e0078674_655894.jpg渋谷区代々木5-1-1にある代々木八幡は、伊豆の修善寺で非業の最期を遂げた源頼家の家来の荒井外記智明という人がこの地に隠遁し、看経修法の日々を送っていたとき、夢の中で大神から宝珠の鏡を授かったので祠を建て、八幡宮を勧請したのが始まりといわれています。
源頼家といえば鎌倉幕府二代将軍で、初代将軍源頼朝と北条政子の長男です。
この人、吾妻鏡には蹴鞠に夢中で執政を疎かにしたとか家臣の女房を寝盗ったとか散々なことが書かれてますが、母の北条氏と乳母の比企一族とで将軍家の跡目争いが絡んでいたのでその辺を考慮して読んだ方がいいかもしれません。
比企能員の娘、若狭局と頼家が結婚すると、あせった北条義時は北条が育てた政子の次男実朝を将軍に据えようと画策し、比企一族を滅ぼしたのち、頼家を伊豆の修善寺に幽閉して暗殺してしまいます。
実朝が三代将軍の地位に就いたのも束の間、右大臣就任の拝賀の式典を鶴岡八幡宮で行なった帰り、社殿の下の大銀杏の陰に隠れていた頼家の忘れ形見公暁に「父の仇」として殺され、公暁も北条氏に討ち取られ、これで源氏の血筋は潰えてしまうのです。
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# by sweetmitsuki | 2005-10-27 07:35 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

蒙古来航②

e0078674_20591269.jpg元寇の頃、海を越えてはるばる日本へやって来たのは、いくさ船と陶磁器だけじゃありません。
幕府に召喚されて、大勢の禅僧が渡来してきました。
ですからこの時代に作られた禅宗の寺院はそれまでの和様建築と違い中国の宋の文化の影響を受け、屋根の棟が空を指すように反り、窓枠が花を模したアーチ型をしているなど、唐様建築と呼ばれる斬新な形をしています。
e0078674_232296.jpg東村山にある正福寺の地蔵堂は都内に唯一残る唐様建築の建造物で、都内唯一の国宝建造物でもあります。
e0078674_23235235.jpg都内といっても東村山ですから直接鎌倉まで行ったほうが近いかもしれませんが、鎌倉では唐様建築の寺院はほとんど消失してしまい、現存しているのは円覚寺の舎利殿だけで、しかも現在非公開なので塀の外からしか見ることが出来ません。
それにやはり鎌倉は見所がいっぱいありすぎてつい目移りしちゃいますが、こちらはそんな心配をせず、時間の許す限り好きなだけ見ていることが出来ます。
e0078674_23223279.jpg境内には新田義貞の子義興が来世を願うために生前に建てた貞和の板碑があります。都内最大級の大きな板碑ですが、どういうわけか、いつの間にか前川の橋に使われ、「経文橋」とか「念仏橋」と呼ばれてました。江戸時代からこの橋を動かすと疫病が流行ると恐れられ、昭和二年に改修のため板碑を撤去したところ、本当に赤痢が流行ったので橋畔で法要を営み、今の場所に落ち着いたそうです。
e0078674_22511774.jpg実際に板碑が使われていたという経文橋へ行ってみましたが、緩やかな小川に掛けられた小さな橋で、わざわざ石橋を架ける必要はないと思いました。と、いうことはやっぱり権力争いの覇者足利氏のイヤガラセなのかしら?
現在はコンクリートの橋が架かっていて、傍らに「供養塔」と書かれた碑が建っていました。
他にも唐様建築のお堂は山梨県の清白寺の仏殿が有名ですが、現存する唐様建築の寺院のほとんどは室町時代のもので、鎌倉時代のものではないんだそうです。どうしてかはやっぱり分からないのですが。
江戸時代に入ると花頭窓等の様式は残りますが、屋根の軒は雨水が緩やかに流れるような自然な勾配になり、唐様建築は廃れ、現在あるようなお寺の形になっていくのです。
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# by sweetmitsuki | 2005-10-14 23:35 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(2)

蒙古来航

鎌倉時代には元と二度にわたる大きな戦争があったので当然、大陸との交流は無かったと思ってたんだけど、それはまったくの間違いで実はそれまで以上に活発な貿易を行なっていたって事、初めて知りました。
鎌倉の人びとは元からの輸入品を好み、鎌倉は日元貿易の中心であり、輸入陶磁器の一大消費地となっていたのです。
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練馬区春日町5-12-1区立春日小学校内にある尾崎遺跡から鎌倉時代に中国から輸入された陶器や銅銭が発掘され、練馬区郷土資料室(石神井台1-16-31)に展示してあります。(撮影は自由ですがホームページに載せる場合は許可が必要です)
e0078674_16441762.jpg春日小の校舎内にも展示室があり、板碑などの出土品を見ることが出来ます。学校行事の都合で見られない場合があるかもしれないので、あらかじめ問い合わせといた方がいいでしょう。
e0078674_1658325.jpg春日小の西には八幡神社が、東には寿福寺があります。どちらも源氏に深い係わり合いのある寺社です。創建はわかりませんが、寿福寺の寺宝に平安時代の軸物があるということから相当古いんだと思います。e0078674_17141219.jpg
としまえんを挟んで南東側には源義家が後三年の役に奥州へ向かう際、戦勝を祈願して奉納したと伝えられている二株の大ケヤキが白山神社の境内にあります。樹齢約九百年と推定され、その後幾多の戦乱に巻き込まれながらも地に根を張り、天に枝葉を伸ばし続けてきたその巨体は歴史を物語る貴重な生き証人です。
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# by sweetmitsuki | 2005-10-10 17:39 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

ふたりの天使

e0078674_1947264.jpge0078674_19471550.jpgJR吉祥寺駅の近くにある井の頭公園には、弁財天を祀る宮社があり、こんな伝承が残ってます。
源頼朝公が伊豆の国に配居した時、平家を追討しようと図り、東国の武士達に加勢してもらうため、安達藤九郎盛長を使者に出した。途中この池の畔でどうやって説得しようか、いいアイディアが浮かばず思慮していると、こつぜんと源氏の開運天女の使いを名乗る美女が現れ「貴方の志は大変立派です。必ず成し遂げなさい。」と告げ、たちまち消え失せてしまった。この事を頼朝に話し「よし、平家を滅ぼしたらそこに宮殿を建てよう。」と意気投合し、宿願遂げた後、後建久八年にこの宮社を建立した。(井之頭略縁起より意訳、抜粋)
e0078674_20182691.jpgここにもやはり、お茶の水と呼ばれる湧水と、原始時代の住居跡があります。
現在は駅に近い七井口がメインゲートですが、黒門と呼ばれる黒い鳥居があるほうが表参道で、ここから人見街道を通って府中に向かう道がかつての鎌倉街道です。黒い鳥居というのは大変珍しく、他に見たことがないのですが、何故黒いのかは分かりません。
ここから直線距離で2キロぐらいの所に遅の井の弁天社があり、やはり頼朝の建立です。同じ時期に同じ人が同じ地域に建てたにしては、ずいぶんと違いがあります。井の頭弁天はその後、新田義貞による武蔵野の合戦で消失してしまいましたが、江戸時代に再建され、庶民の間で芸道精進の神として信仰されました。遅の井弁天は戦火を罹災することはなかったようです。こちらは雨水に霊験あらたかと、五穀豊穣の神として農民の間で信仰を集めました。
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# by sweetmitsuki | 2005-10-09 20:57 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

遅の井伝説

e0078674_716318.jpg青梅街道に面した井草八幡(杉並区善福寺1丁目33)には頼朝が戦勝記念に自ら植えたとされる松の木があります。残念なことに初代は枯れてしまい、今見ることが出来るのは二代目です。
源氏の武将に縁のある大きな八幡宮の前は、決まって鎌倉街道と呼ばれる古道が通っているものなんですが、井草八幡の前にはそれが見つかりません。私としては、穴八幡がある早稲田に通じる早稲田通りこそがかつての鎌倉街道だと思うのです。証拠となるものは何もありませんけど。
井草八幡も穴八幡も共に原始時代の遺跡が発掘されています。つまり、ここは古事記の神話イザナギ、イザナミよりも遥かに古い時代から神聖な儀式を行なう地だったわけです。
古代人が狩りをする際に必要不可欠な鏃に使う黒曜石は産地が限られているのですが、全国の遺跡から見つかっています。つまり、黒曜石などの特産品を運ぶための道はその頃からあったんだと思うんです。それが、今の早稲田通りだったんじゃないでしょうか?
e0078674_7162015.jpg奈良時代に武蔵国府と常陸国府を結ぶ道に『アマヌマ』という駅があったとされ、それが現在の天沼だったんじゃないかといわれてるのですが、これも詳しい事は分からないんだそうです。
e0078674_7284938.jpg井草八幡のすぐ近くには善福寺池がありまして、頼朝が欧州に向かう途中折悪しく旱魃のため将兵の飲水に困り、自ら弓の本筈で地を堀り水を得、この井水が善福寺池の源泉となったという伝説があります。
e0078674_755780.jpgもちろん善福寺池は頼朝が生まれる10万年位前から地球上に存在していた天然の湧水ですが、天下を掌握した武人を後世の人は尽きる事無く台地を潤し続け稲穂を育む泉に例えたのでしょう。
e0078674_7523630.jpg水の出が遅く弁財天を祈りやっと水を得た、ともあり、弁財天を祀る市杵嶋神社があります。
このことから甘水に霊験ありとして旱魃の折には区内はもとより中野、練馬の村々からも雨乞い祈願に参り、昭和24年まで雨乞いの行事はあったそうです。
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# by sweetmitsuki | 2005-10-05 08:12 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)