mitsukiのお気楽大作戦

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ふたりの天使

e0078674_1947264.jpge0078674_19471550.jpgJR吉祥寺駅の近くにある井の頭公園には、弁財天を祀る宮社があり、こんな伝承が残ってます。
源頼朝公が伊豆の国に配居した時、平家を追討しようと図り、東国の武士達に加勢してもらうため、安達藤九郎盛長を使者に出した。途中この池の畔でどうやって説得しようか、いいアイディアが浮かばず思慮していると、こつぜんと源氏の開運天女の使いを名乗る美女が現れ「貴方の志は大変立派です。必ず成し遂げなさい。」と告げ、たちまち消え失せてしまった。この事を頼朝に話し「よし、平家を滅ぼしたらそこに宮殿を建てよう。」と意気投合し、宿願遂げた後、後建久八年にこの宮社を建立した。(井之頭略縁起より意訳、抜粋)
e0078674_20182691.jpgここにもやはり、お茶の水と呼ばれる湧水と、原始時代の住居跡があります。
現在は駅に近い七井口がメインゲートですが、黒門と呼ばれる黒い鳥居があるほうが表参道で、ここから人見街道を通って府中に向かう道がかつての鎌倉街道です。黒い鳥居というのは大変珍しく、他に見たことがないのですが、何故黒いのかは分かりません。
ここから直線距離で2キロぐらいの所に遅の井の弁天社があり、やはり頼朝の建立です。同じ時期に同じ人が同じ地域に建てたにしては、ずいぶんと違いがあります。井の頭弁天はその後、新田義貞による武蔵野の合戦で消失してしまいましたが、江戸時代に再建され、庶民の間で芸道精進の神として信仰されました。遅の井弁天は戦火を罹災することはなかったようです。こちらは雨水に霊験あらたかと、五穀豊穣の神として農民の間で信仰を集めました。
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# by sweetmitsuki | 2005-10-09 20:57 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

遅の井伝説

e0078674_716318.jpg青梅街道に面した井草八幡(杉並区善福寺1丁目33)には頼朝が戦勝記念に自ら植えたとされる松の木があります。残念なことに初代は枯れてしまい、今見ることが出来るのは二代目です。
源氏の武将に縁のある大きな八幡宮の前は、決まって鎌倉街道と呼ばれる古道が通っているものなんですが、井草八幡の前にはそれが見つかりません。私としては、穴八幡がある早稲田に通じる早稲田通りこそがかつての鎌倉街道だと思うのです。証拠となるものは何もありませんけど。
井草八幡も穴八幡も共に原始時代の遺跡が発掘されています。つまり、ここは古事記の神話イザナギ、イザナミよりも遥かに古い時代から神聖な儀式を行なう地だったわけです。
古代人が狩りをする際に必要不可欠な鏃に使う黒曜石は産地が限られているのですが、全国の遺跡から見つかっています。つまり、黒曜石などの特産品を運ぶための道はその頃からあったんだと思うんです。それが、今の早稲田通りだったんじゃないでしょうか?
e0078674_7162015.jpg奈良時代に武蔵国府と常陸国府を結ぶ道に『アマヌマ』という駅があったとされ、それが現在の天沼だったんじゃないかといわれてるのですが、これも詳しい事は分からないんだそうです。
e0078674_7284938.jpg井草八幡のすぐ近くには善福寺池がありまして、頼朝が欧州に向かう途中折悪しく旱魃のため将兵の飲水に困り、自ら弓の本筈で地を堀り水を得、この井水が善福寺池の源泉となったという伝説があります。
e0078674_755780.jpgもちろん善福寺池は頼朝が生まれる10万年位前から地球上に存在していた天然の湧水ですが、天下を掌握した武人を後世の人は尽きる事無く台地を潤し続け稲穂を育む泉に例えたのでしょう。
e0078674_7523630.jpg水の出が遅く弁財天を祈りやっと水を得た、ともあり、弁財天を祀る市杵嶋神社があります。
このことから甘水に霊験ありとして旱魃の折には区内はもとより中野、練馬の村々からも雨乞い祈願に参り、昭和24年まで雨乞いの行事はあったそうです。
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# by sweetmitsuki | 2005-10-05 08:12 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

頼朝凱旋録

e0078674_16314772.jpge0078674_16322238.jpg義経をかくまった藤原氏を討ち滅ぼすため自ら兵を率いて奥州に出陣した頼朝は、念願の全国制覇を成し遂げました。関東に凱旋した頼朝は、おしゃれにも青山キラーストリートで閲兵式を行ないます。現地にある説明書きには『後三年の役に八幡太郎が』とありますが、ここが源氏の奥州遠征の際の宿営地だったことには間違いないので細かいことは気にしない事にしましょう。
e0078674_16332518.jpgこの辺は古き良き時の史蹟を散策すると同時に最新情報を入手出来るという大変便利な所です。私もつい寄り道して表参道でノアドロームのモヘアのセーター買っちゃいました。
表参道から青山通りへ抜け、国連大学の向かいの通りにある金王八幡で、頼朝は戦勝記念に桜を植えています。一枝に一重と八重の花が入り混じって咲く大変珍しい桜です。「遠山の金さん」が背中に彫っている桜吹雪は、ここの桜を描いたのだそうです。e0078674_16341218.jpgそれから代官山で頼朝は猿楽を催しています。当時の最新エンターティーメントを代官山で演るなんて、頼朝、どこまでもおしゃれです。この地を猿楽町というのはそのせいです。ここは古代の墳墓だったとされていて、近くから原始時代の遺跡が数多く発掘されているのも鎌倉街道の大きな特徴のひとつです。つまりはその時代からこの道はあったのでしょう。
旧山手通りを西郷山公園から南西へ曲がりしばらく行くと、寿福寺と言うお寺さんがあります。鎌倉五山で最も古いとされるあの寿福寺と同じ名前です。e0078674_16425717.jpge0078674_1639594.jpgそういえば、よみうりランドの裏にある弁慶が赦免祈願の般若経を書いたとされる寺も寿福寺でした。どんな関係があるのかは分かりませんが、境内に板碑があるので、鎌倉時代からあることに間違いないでしょう。
さらにまっすぐ進むと頼朝が乗っていた葦毛の馬が突然死んだので埋葬したとされる葦毛塚が道の真ん中に見えてきます。白馬に乗ってたなんて、頼朝、やっぱりおしゃれです。e0078674_16433519.jpg
この先に駒繋神社という、頼朝が馬を繋いだとされる神社があります。今は暗渠ですが、この前を蛇崩川が流れていて、近くに湧水があるというのもやはり鎌倉街道の特徴です。
同じ天下人として有名な徳川家康や、弟の義経に比べていまいちマイナーな頼朝ですが、探してみると結構ゆかりの地があるもんですね。
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# by sweetmitsuki | 2005-10-03 16:50 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

国分寺で聞いてみました。

e0078674_6145366.jpg今まで見てきたのは『鎌倉街道と呼ばれている中世には既にあったとされる古道』であって、『鎌倉幕府が国家事業として建設した軍用道路』かどうかはわかんないのよね。
国分寺にある鎌倉街道はわずか100mで街道としての役割は既に終わっちゃってるんだけど、切り通しといって山を掘り崩して人工的に平にしてあり、人が手を掛けて作った事に間違いは無く、国分寺市指定史蹟にもなってるので当時の土木技術の様子を聞けると思い、国分寺市役所に問い合わせてみたんだけど、「国分寺市内に2つある伝鎌倉街道の建設に鎌倉幕府が関与した証拠となるものは一切見つかっておらず、そのため、伝鎌倉街道と呼んでいます。」との回答。
e0078674_6295547.jpg不思議なのは、奈良時代に既に東山道(現在の府中街道)が通っていたにもかかわらず、わざわざその100m足らずの脇へ、切り通しを掘ってまで道を作り直してること。
東山道より蛇行していて狭いのは、軍事目的でわざとそのようにしたのではないかと考えられているそうです。
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# by sweetmitsuki | 2005-09-28 06:36 | 史蹟で歴史のお勉強 | Comments(0)

謎の中の道

e0078674_20385535.jpg東京都内を走る鎌倉通りは、上州から府中を通り化粧坂に入る『上ノ道』下総から柴崎を通って朝比奈口に入る『下ノ道』が有名ですが、もうひとつ奥州から巨福呂坂に入る『中ノ道』があるんだそうです。
今となってはどこをどう通ってたんだか分からないのですが。
東京都板橋区仲町46-3に轡神社という小さな社があります。板橋区教育委員会の掲げた説明書きによると、「社前の道路は俗に鎌倉街道といわれた古道」とあります。
地元で古くから商店を営んでいるお年寄りに聞いてまわったんですが、そんな事を知ってる人は一人もいませんでした。
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# by sweetmitsuki | 2005-09-25 20:57 | 史蹟で歴史のお勉強 | Comments(0)

鎌倉通りが鎌倉に通じてないわけ

e0078674_0424785.jpg『いざ鎌倉』の掛け声を聞くと、杉並在住の御家人達は、まず府中に集まって作戦を練り、それから鎌倉に出陣したのだそうです。
杉並区教育委員会の出版による『杉並の古道』にそのようなことが書かれています。
ですから、鎌倉通りは直接鎌倉に行く道ではなく、府中へ行く道なんだそうです。
太子堂の説明書きにも「太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉に通じる道」って書いてあり、
「方角、逆じゃん」
っって思ってたんですが、そういうことだったんですね。
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# by sweetmitsuki | 2005-09-25 00:45 | 史蹟で歴史のお勉強 | Comments(0)

おんなじ名前の違う道

e0078674_1447761.jpg井の頭通りから小田急線下北沢駅へ向かう道を鎌倉通りといいます。
環七と甲州街道の向こうにある京王線浜田山駅に向かう道もやはり鎌倉通りと呼ばれていて、私はつい最近までこの道を同じ道だと思っていました。
同じ道を横切る違う道なのに名前が同じなんて、ずいぶん紛らわしいですよね。
井の頭通りから北沢中前の信号を南へ行き、下北沢駅を通り過ぎると、鎌倉橋に差し掛かります。e0078674_1448037.jpg
以前は暗渠でしたが今は北沢川が復活し、せせらぎが楽しめます。桜並木も続いていて、さぞかし春はキレイなことでしょう。
更に南へ進むと太子堂と呼ばれる八幡宮があり、源氏の氏神である八幡様が祀られています。ここから鎌倉へ行く道が鎌倉街道だと境内に説明が添えられていました。このブログ始めて初めて説明書きというものを発見したのでなんだか感激です。
いったん井の頭通りまで戻り、西へ進みます。e0078674_1571097.jpg
浜田山三の信号を南へ曲がるとまたしても鎌倉通りです。何度もいうように、ぜんぜん違う道ですが。
e0078674_1583521.jpg浜田山駅と通り過ぎると、やっぱり鎌倉橋があり、橋を渡って左の狭い路地を進むと、同じように八幡宮があります。
ただ、この八幡宮は大田道灌の建立とあり、ちょっと時代が違います。
杉並区教育委員会が発行している『杉並の古道』にも「古い記録にはみられず、江戸時代ごろからの名称ではあるまいか」とあります。どっちにしろ、両方とも本来八幡宮から鎌倉まであったはずの鎌倉街道が今はなく、井の頭通りに続く、もともと無かったほうの道が残ってるというのが面白いです。
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# by sweetmitsuki | 2005-09-23 15:36 | 史蹟で歴史のお勉強 | Comments(0)

弁慶の筆洗い井戸

旧甲州街道沿いに、弁慶が写経をする際に、水を汲んだとされる井戸が幾つかあります。
史実からいえば、源平合戦の後すぐ追われる身となった弁慶が、関東の寺でそんな悠長なことやってる暇なんて無かったんじゃないかと思うのですが。
甲州街道を西へ向かうと、つつじヶ丘駅の手前の歩道橋脇に小さな参道があり、その突き当りに厳島神社があります。
e0078674_1619237.jpg手水鉢を見るとなるほど源氏の紋が。
鳥居をくぐってすぐ右にありました。井戸というよりは泉です。以前腰越の満福寺で見た義経手洗いの井戸に似てるといえば似ています。e0078674_16251787.jpgただ、説明書きのような物は一切ありません。そして御覧のように水もありません。管理人の話ですと、ずいぶん前に枯れてしまったのだそうです。事前に調べておいた情報によると写経をしたのは弁慶ではなく源平の合戦で義経に仕えた金子という武士ではないかということらしいのですが、最近中学生の悪戯によるボヤ騒ぎがあったとかでピリピリしており、とても話を聞ける雰囲気ではありませんでした。
気を取り直して甲州街道を更に西へ行くと高安寺があります。e0078674_1741535.jpg観光ガイドにも乗っている有名なお寺です。寺紋は源氏ではなく足利氏のものでした。ここでは弁慶硯の井と呼ばれていて普通に井戸です。高安寺もの語りの栞というパンフレットの中に詳しいことが書かれていて、弁慶にしてみれば合戦の一番の功労者が実の兄に殺されるとは思ってもいませんでしたでしょうから写経をすれば許してもらえるとこの時は考えたのかもしれません。e0078674_17154389.jpg
多摩川を渡ってよみうりランドの近くにある寿福寺にも弁慶の筆洗い井戸があります。
あいにく住職が不在で話を聞くことは出来ませんでしたがお参りに来ていた人の話ですとやはり腰越から京へ向かう途中しばらく滞在して赦免祈願の写経をしたという言い伝えが残っているそうです。ここにも説明書きのような物は一切ありませんでしたが、山門を入ってすぐ左にある池がたぶんそうだと思います。ここの寺紋もやはり源氏のものでした。
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# by sweetmitsuki | 2005-09-21 17:37 | 史蹟で歴史のお勉強 | Comments(2)

かまくら道、走破!

e0078674_8223279.jpg東京都内には鎌倉に通じてるわけでもないのにかまくら~という道が幾つもありますが、これは東京メトロ地下鉄赤塚駅に程近い赤塚一番街の入り口にある騎馬武者像です。
鎌倉古道 至はやせ 至かまくら、とだけ書かれていてそれ以外の説明は一切ありません。
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区役所に問い合わせても、かつてこの地が鎌倉とどう関わり、何を記念して誰がこの像を建てたのか判らないとのことです。ちなみに、商店街の終わりにももう一体像があります。
とりあえずこれ以外に赤塚駅周辺で鎌倉時代について特筆することは無いので、愛機のベスパに跨り、かまくら道こと467をまっすぐ南下、江ノ島に行って来ました。
ここの一番偉い神様は通称『裸弁天』と呼ばれる一糸纏わぬ姿の女神様です。
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何故裸なのか本当のことは判りませんが、想像するに、『着せ替え』が出来るように、躯体と衣装を別に作ったのではないでしょうか?
そのように勝手に解釈させて貰い、なんとなくご利益がありそうな気がしたので、今回初ブログ作成ということで御参りさせていただきました。
江ノ島に来てビールが飲みたくなったら、自販機じゃなくて地元の酒屋さんで定価で売ってるのでお買い得ですよ。
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# by sweetmitsuki | 2005-09-20 09:18 | 史蹟で歴史のお勉強 | Comments(1)