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mitsukiのお気楽大作戦


手作り雑貨と原チャリ放浪と雑学で綴る、実践お気楽ライフ
by sweetmitsuki
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戦争を知らない私たち

戦争を知らない私たち_e0078674_23131925.jpg昔といってもそんなに昔の事は知らないのですが、かつて8月15日の靖国神社は、戦死した日時も分からないような激戦区に赴いて遺骨も戻らなかった戦没者の遺族が、今日を命日として訪れは手を合わせていくひっそりとした一日だったそうです。
それがいつの頃からでしょうか。
多分「ともだち○こ」とか下品なギャグで有名になった漫画家が変な漫画を描き始めたあたりからでしょう。
コスプレっていうんですけど、兵役の経験は当然ない若造が、旧日本軍の軍服を着て我が物顔で乱痴気騒ぎをする日になったのは。
お願いですから、そういう事はコミケでやって下さい。
今日の平和と安寧はかつて日本のために礎となった英霊たちのお陰ですって?
冗談じゃない。
見渡す限り一面の焼け野原で、世界中の誰もが復興は不可能だと見做したかつての日本を蘇らせたのは、堪え難きを耐え、忍び難きを忍んで、奇跡の高度成長を成し遂げた、まじめに働き、夢だけは忘れなかった名もなき市井の人々のお陰でしょう。
それから、明治に日本が欧米並みの繁栄を遂げられたのも、兵隊さんのお陰ではなく、劣悪な環境の生糸工場で血を吐いて死ぬまで働き続けさせられた工女たちのお陰でしょうに。
戦争を知らない私たち_e0078674_23293999.jpg

今年は、総理への靖国参拝を義務化させようというデモ隊と、逆に靖国参拝を規制しようというデモ隊の衝突があったため装甲服を身に纏った機動隊が出動したりして、かなり物々しい雰囲気でした。
騒々しいのは嫌いじゃありませんが、物騒なのには閉口なので、場所を変えて世田谷にある特攻観音へ行って来ました。
戦争を知らない私たち_e0078674_2343212.jpg8月15日の終戦の日にここを訪れるのは実は初めてではなく、いつ行っても閑散としていたものでしたのですが、今年は特攻で亡くなった戦没者の御遺族らしき方たちの他にも何人か、縁者とは思えなさそうな若い人たちが焼香に訪れていて、「よろしかったら、どうぞ。」とのお坊さんの声に、私も列に並ばせていただきました。
一兵卒に戦争責任はないとか、、そういう理屈っぽい理由からではなく、ここは寺院というより、骨董好きの趣味人がその手の物を集めて出来た庵といった感じの建物で、その辺の宗教色の曖昧さが、なんとなくそんな気を起こさせてしまったのでした。
戦争が終わって64年、当時を知る人たちがだんだんいなくなっていく中、あの戦争は今後どのように語られてゆくのでしょうか?
意気揚々と日本の正義を主張する者、眉を顰めていつか来た道への退行を懸念する者、ただ静かに手を合わせる者。
十人十色なアクションの人たちに出会えた一日でした。

by sweetmitsuki | 2009-08-15 22:55 | お出かけドリフト | Trackback(2) | Comments(10)
Tracked from 好都合な虚構 at 2009-08-17 09:43
タイトル : ある年の8月     
これは『Computer Report』誌の2002年12月号に掲載された文章の一部を修正したものです。 **************************************  金沢市の瓢箪町国民学校に通っていたのは昭和20年,すなわち敗戦の年の1学期である。沖縄が米軍に占領され,ナチス・ドイツは全面降伏した。日本では毎日都市が爆撃されている。このまま都会にいては危ないと思って不思議はない。  しかし,当時六大都市に次ぐ大都市の1つだった金沢には爆撃機も戦闘機も飛んでこない。たまに偵察機...... more
Tracked from 好都合な虚構 at 2009-08-17 09:44
タイトル : 8月15日は大漁だった!   
 当時の神恵内村の人口は3,000人と教えられたが,ラジオは村役場と郵便局に置かれているのを含めて数台しかなかった。だから村人のほとんどは,岩内から昼頃運ばれてくる新聞を読むまで「新型爆弾」のことを知らなかったはずだ。  『北海道新聞』が広島の原爆をどのように扱っていたかは記憶していない。しかし相当大勢の村人が父のところにやってきたことは覚えている。  その頃の神恵内村としては,明治政府の高級官僚の息子で神戸商業を卒業し,大阪で貿易会社の重役になった父は大変なインテリに思えたようだ。朔郎さんなら教...... more
Commented by antsuan at 2009-08-16 01:15
英霊たちのおかげじゃないとおっしゃる。そうですかね。
死ぬまで戦った英霊たちの勇気が抑止力となって、平和と繁栄が築かれたと考えるのはおかしいでしょうか。
Commented by kaneniwa at 2009-08-16 01:20
私の子どもたちは
「戦争を知らない子どもたち」
という歌を知らない
子どもたち

BYマーヒー
Commented by saheizi-inokori at 2009-08-16 08:17
まったく同感です。遺された人々の辛苦こそ礎です。
世田谷の特攻観音、行ったことがないなあ。秋になったら散歩してみます。
Commented by sweetmitsuki at 2009-08-16 13:57
あんつぁん
靖国神社で英霊と呼ばれている、特攻作戦で亡くなった方たちの絶筆文を読んできました。
まだ二十歳そこいらなのにとても達筆で、明日生きられない方とは思えないほどのしっかりした力強い筆使いで書かれていて、この方たちがわが国の未来の安泰を信じて疑っていない事がそれだけで充分に伝わってきました。
この人たちはたかだか一隻の敵艦を沈めて命を亡くすような人たちではなく、戦後日本のために奮戦すべきだったと。
そしてこんな所で神として祀られるのではなく、現世で子や孫たちに囲まれ穏やかで慎ましい老後を迎えるべきだったと。
そう感じました。
Commented by sweetmitsuki at 2009-08-16 14:08
マーヒーさま
「戦争を知らない子供たち」がヒットしたのはベトナム戦争のさなかでしたっけ?
イラク戦争では歌にもならないのでしょうか。
Commented by sweetmitsuki at 2009-08-16 14:32
佐平次さま
特攻平和観音は、246と環7が交差する東の方にあります。
清の皇帝から送られたという狛犬やら、運慶の孫の康円の作といわれる不動明王と八大童子(閲覧できません)やら、かつては伊勢長島の興昭寺の本尊だった聖観世音菩薩が本尊やら、二条城から移築された金閣寺を模して造られた建物があるやらで、戦争遺碑以外にも、見ていて飽きないものがありますよ。
Commented by convenientF at 2009-08-17 13:51
唯々、あなたの知性に敬意を表し、ご多幸を祈ります。
Commented by sweetmitsuki at 2009-08-18 21:04
convenientFさま
コメント頂くのは初めてなので返信も初めてですが、たまにブログ記事読ませて貰っています。
私がどうしても許せないのは、戦争も兵役(自衛隊を含む。だからA氏は別)も経験した事がないくせに、戦争のいい面だけを描いた漫画や本を数冊読んだだけで、国のために命を擲った特攻隊に心酔し、反戦平和を絵空事だと嘲笑し、戦後民主主義の陥穽を口汚く罵るガキ共と、それを煽ってメシのタネにしているモノ書き共です。
そんなに戦争がやりたいのなら海のど真ん中に巨大な発泡スチロールの板で島をつくって、同じく戦争がしたい外国人と素手で殺し合えばいいと思います。
Commented by convenientF at 2009-08-19 15:53
>そんなに戦争がやりたいのなら海のど真ん中に巨大な発泡スチロールの板で島をつくって、

かつて暴力団の抗争が激化し、一般市民の日常が脅かされたとき、「北海道の真ん中の原始林で好きなだけやらせておけばいい」と私は発言して袋叩きになったことがあります。

暴力団が大手都銀などと組んで堅気の企業より巧妙な手段で稼ぐようになったのはその後です。

富を守るにも富を収奪するにも、武力は最もヘボな手段であることを悟ったのです。
兵器の有効期限が迫ってきて慌てて消費に走る場合もありますが、それは軍事超大国の話。
Commented by sweetmitsuki at 2009-08-24 21:51
富を破壊してゴミに変えてしまう事においてのみ、武力は最も有効な手段で、それ以外の何かの役に立つ代物ではありません。
税金から何億ドルもの燃料を米軍のために無駄使いさせといて、国民にはレジ袋や割り箸の利用を控えろですって?
冗談じゃありません。
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