人気ブログランキング | 話題のタグを見る

mitsukiのお気楽大作戦


手作り雑貨と原チャリ放浪と雑学で綴る、実践お気楽ライフ
by sweetmitsuki
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
最新のコメント
記事ランキング
カテゴリ
フォロー中のブログ
ライフログ
検索
タグ
以前の記事
ブログジャンル
画像一覧

本当は恐ろしい百人一首

本当は恐ろしい百人一首_e0078674_3301736.jpg鹿島神宮の近くに、鎌足神社という小さな神社があり、ここが藤原鎌足生誕の地であるという伝承が残っていて、鹿島神宮の造営と関係があるのではないかともいわれていますが、本当に小さな神社なので真偽の程は定かではありません。
藤原鎌足は大化の改新で皇太子時代の天智天皇の内臣として政権中枢に加わり「公地公民」「年号制定」「班田収授法」などさまざまな政治改革を行い、天皇による中央集権体制の基礎を築いた人物といて小学校の歴史の教科書にも書かれているのですが、その天智天皇は歌人としても有名で、百人一首の最初の一首に歌が選ばれています。

秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露に濡れつつ

この歌は、素直に現代語訳すれば「秋の田の傍にある仮小屋の屋根を葺いた苫の目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れてゆくばかりだ。」となるのですが、どうして天皇ともあろう御方が田んぼのボロ小屋でびしょ濡れになっているのか謎です。
実際、この歌の作者は天智天皇ではないというのが定説で、万葉集の詠み人知らずの歌が変遷して御製となり、天智天皇と農民の姿を重ね合わせることで、庶民の痛み・苦しみを理解する天皇像を描き出している、ということになっているのですが、本当にそうなのでしょうか。
百人一首の最初の一首と二首に選ばれた天智天皇と持統天皇は親子で、最後の九十九首と百首に選ばれた後鳥羽天皇と順徳天皇も親子ですから、これらの歌は対になっていると考えるのが妥当ではないのでしょうか。
そして後鳥羽天皇の詠んだ歌とは

人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は
(人をいとおしく思うこともあれば、人を恨めしく思うこともある。思うにまかせず、苦々しくこの世を思うがゆえに、あれこれと思い煩うこの私は。)


順徳天皇の詠んだ歌は

ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
(宮中の古い軒端の忍ぶ草を見るにつけても、偲んでも偲びつくせないものは、昔のよき(天皇親政の)時代であるよ。)


で、共に承久の乱で敗れて流刑に処せられた身の上を嘆いている歌で、つまり天皇による中央集権体制の終焉を描いたものですから、天智天皇と持統天皇の詠んだ歌は天皇による中央集権体制の始まりを暗示しているのではないのでしょうか。
本当は恐ろしい百人一首_e0078674_3312131.jpg大化の改新の発端は、乙巳の変というクーデターでした。
この事件でまだ皇子だった天智天皇は、刺客が怖気づいて動かないのに業を煮やし、自ら蘇我入鹿に斬りつけています。
百人一首の選者、藤原定家はずっとこの歌を詠み人知らずとしていて、百人一首ではじめて天智天皇作と書いています。
百人一首とは現在あるような雅やかな平安絵巻というイメージとは裏腹に、遺恨のうちに憤死した人びとの怨念が込められた歌が多く、この歌の作者はやはり天智天皇で、これはクーデターの成功を秋の収穫に喩えて詠んだのではないでしょうか。
つまり、天智天皇の衣手を濡らしたのは雨露ではなく蘇我入鹿の返り血ではないかという、恐ろしい解釈の仕方があるのではないのでしょうか。
そして、それゆえにこの歌が長い間、詠み人知らずとされていたのではないのでしょうか。
続く持統天皇の歌は

春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干すてふ 天の香久山

で、秋の田で衣を濡らしている父から夏の山で衣を干している娘という反転がネガとポジになっています。
この歌も素直に現代語訳すれば「春もおわり夏がやって来たらしい。真っ白な衣が干されている、あの天の香具山に。」となるのですが、天の香具山は神聖な神奈備(かんなび)の山で人は、たとえ天皇であっても立ち入れなかったので、この山に着物を干すという意味解釈は不適当です。
この衣は、人が干したものではないのです。
持統天皇といえば、皇后であった時代に我が子の即位を願い、大津皇子を謀殺したことが有名ですが、その甲斐なく実子の草壁皇子は夭逝してしまいます。
そこで孫の軽皇子を擁立しようとするのですが、わずか7歳の軽皇子を皇太子には立てられません。
苦悩の末、持統天皇は自ら即位し孫の成長を待ち、軽皇子を文武天皇として即位させたのです。
ですからこの歌も、「争いは終わり、私の時代がやってきた。高天原の天照皇大神が天孫を降臨させたように、私の孫こそが天皇となるべきなのだ。」という解釈ができるのではないのでしょうか。

「古事記」における天孫降臨の記述は、文武天皇の即位に酷似しているので、文武天皇の正当性を主張するために創作されたフィクションではないかという説がありますが、私はそういう考えはどうかと思います。
人は窮地に立たされた時、無意識のうちに歴史を模倣するものなのです。
実際、この時代の人びとは度重なる皇位継承争いに疲弊しきっていました。
そこで、女性である持統天皇を擁立することで、争いを終わらせようとしたのです。
これって何かに似ていると思いませんか?
「魏志倭人伝」で倭国大乱に疲れ果てた諸王たちは卑弥呼を女王に擁立し、国を平和に治めたという記述にそっくしじゃないですか。

by sweetmitsuki | 2012-05-24 18:42 | 古代史でポン | Trackback | Comments(0)
名前
URL
削除用パスワード
<< 緑のカーテン育成中 国譲り神話 >>