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mitsukiのお気楽大作戦


手作り雑貨と原チャリ放浪と雑学で綴る、実践お気楽ライフ
by sweetmitsuki
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邪馬台国関東説

邪馬台国関東説_e0078674_2031543.jpg東京・文京区にある根津神社は、今から千九百年前、日本武尊の創建によるものと伝えられ、この伝説が本当なら、都内で最も古い神社の一つということになります。
神武天皇の後、9代天皇までを欠史8代といい、戦後の考古学ではフィクションであると考えられていますが、10代崇神天皇は、崇神天皇という個人が存在したかは別として、大和朝廷の成立に携わった人物として(複数説あり)、実在の可能性がある、事実上初代の天皇です。
日本武尊は崇神天皇の曾孫にあたり、やはり日本武尊という個人が存在したかは別として、大和朝廷が全国へ勢力を拡大していった課程を表すものとして、全国に残されている日本武尊伝説は、考古学的にもほぼ史実として受け入れられています。
九州、出雲、焼津と縦横無尽の活躍を展開する日本武尊ですが、どういう訳か武蔵国ではほとんど誰とも刃を交えません。最愛の妃、弟橘と死別しているにも拘らず。
邪馬台国関東説_e0078674_21231879.jpg史実に基づいてるとはいえ、ウソ書いたってバレやしないんだから、あること無いこと盛り込んでもっとカッコいいヒロイックファンタジーにすればいいのに、どうしてなんでしょう?
そこで大胆な仮説を考えてみました。
日本武尊の遠征ルートは実は全て逆方向で、弥生時代の名称の由来にもなった此処本郷弥生町こそが、大和朝廷の本拠地で、魏志倭人伝に登場する、幻の邪馬台国なのではないのでしょうか。
そうすれば、妃の弟橘が神奈川県の走水沖で溺死したこと、武蔵国で大きな戦争が無かったこと、大和国で実の兄を惨殺していること、帝都に凱旋することなく無名の一地方神との戦いであっけない最期を遂げていること、すべて説明が出来ます。
邪馬台国関東説_e0078674_21273275.jpg後に大田道灌が江戸城を築城中、金印を発掘しているのですが(明暦の大火で消失、現存せず)、これこそが卑弥呼が魏から送られたという、親魏倭王の金印ではないのでしょうか。
卑弥呼は人前に姿を現さず、弟を形式上の王位に就かせていましたが、この人物こそが崇神天皇だったといわれていて、もしこの説が本当なら、明治の大政奉還の際、帝は千八百年の時を経て、故郷に里帰りしたことになります。

なんてね。

真面目に読んで下さった方、ゴメンナサイ。
引用した史実はすべて本当の事ですが、邪馬台国関東説はまったくのデタラメです。
古代史、特に邪馬台国はコジツケとしか思えない突飛な自説を展開する人がいるので、私もついやっちゃいました。許してください。あはははは。

by sweetmitsuki | 2006-06-20 21:20 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(2)
Commented by antsuan at 2006-06-21 15:17
逗子・葉山にある前方後円墳は弟橘のものではないかと密かに思っているのです。となるともう一基の墳は日本武尊のものである可能性が生まれてきます。走水も東京湾の難所ですが、ここ逗子湾の沖も西風が吹くと大荒れになるところなのです。今年から十年計画で発掘が始まるそうです。何せ四世紀頃の古墳ですから、調査によっては歴史が変わるかも知れません。
Commented by mitsuki at 2006-06-21 18:37 x
日本武尊や弟橘に象徴される大和朝廷の全国統一メンバーは陸路ではなく海路を渡って武蔵国に辿り着いたそうで、縄文の昔から、黒曜石を求めて伊豆~神津島間を往復していた古代日本の航海技術にはただ驚愕するばかりです。
古墳も単なる王の墓ではなく、灯台のように海路を照らしていたのかもしれません。
発掘が進めば当時の海上交通の様子がより鮮明に分かるようになるでしょう。楽しみです。
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