mitsukiのお気楽大作戦


手作り雑貨と原チャリ放浪と雑学で綴る、実践お気楽ライフ
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殺生石

e0078674_18491614.jpge0078674_19432391.jpg九尾の狐って、妖怪が出てくる荒唐無稽なお話なのに、実在の天皇が登場するんだから、なんだかわけがわかりません。
絶世の美女、玉藻前のモデルは、時の皇后美福門院だったといわれていて、妖怪云々を除けば、ほぼ史実に則っているようです。
e0078674_19415373.jpg美福門院は鳥羽上皇の寵愛を受け、近衛天皇を授かりますが、生まれつき体が弱く僅か17歳で病死してしまいます。その後、末娘との縁談が纏っていた守仁王(後の二条天皇)を擁立させようとして後白河天皇を即位させるのですが、崇徳天皇との間で激しい対立が起こり、検非違使(軍隊)を動員して乱(戦争)を起こし、崇徳天皇を京から追い出してしまいます。これが歴史の教科書にも書いてある保元の乱です。
崇徳天皇の母、待賢門院白河法皇の寵愛をも受けていて、崇徳天皇の本当の父親は白河法皇だったと噂され、父の鳥羽上皇から疎まれていたといいますから、妖怪も真っ青のドロドロの愛憎劇です。
那須湯本温泉郷には九尾の狐が最期に八万の軍勢と壮絶な戦闘を繰り広げ、姿を変えたという殺生石があります。どうして京から遠く離れたこの地に、こんな伝説があるのでしょう?
e0078674_1936507.jpg詳しい事は分かりませんが、屋島の戦いで活躍した那須与一がここの出身で、近くにある温泉神社に祀られている『ゆぜんさま』を信仰していたといわれています。そのため、ここの注連縄は扇の形をアレンジした独特の形をしています。
それから、那須温泉『鹿の湯』は奈良時代の駿河の国正税帳にも記載されている古い温泉で、ここが古代から栄えていた都市だったことは間違いないようです。
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# by sweetmitsuki | 2005-11-26 18:58 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback(1) | Comments(4)

勇将の下に弱卒なし

e0078674_2381781.jpge0078674_4403425.jpg多摩川と野川の合流地点にできた中州の島、兵庫島(世田谷区玉川3-2-1)は、矢口渡で憤死した新田義興主従のうち、由良兵庫助の亡骸が流れ着いたことから名付けられました。
e0078674_448364.jpgところが兵庫島は、矢口渡から10キロほど上流にあり、生命を失った亡骸が川を遡上するなんて、ありえない、って思ったんですが、河口堰の整備されてなかった昔の川は、満潮のときは上げ潮に乗って逆流したんだそうです。
e0078674_534833.jpg実際、これより上流で行なわれていた古代染布の晒し洗いがこの辺りでは塩水が強すぎてできなかったといわれています。
由良兵庫助を祀るものはここにはなく、新田神社に近い十寄神社(大田区矢口2-17)に新田義興主従と共に祀られています。
新田神社に願をかける際は、まずここで従者たちに詣でないと、願いを聞き入れてもらえないと言い伝えられています。
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# by sweetmitsuki | 2005-11-20 05:04 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

紅一点 姫神少将局

e0078674_2015158.jpgJR蒲田駅近くにある女塚神社(大田区西蒲田6-22-1)には太平記に登場する新田義興を助けた少将局を神として祀る祠があります。
実在の人物を神として祀る神社は幾つかありますが、すべて男性で、女神さまというのは私の知る範囲では他に聞いたことがありません。
この神社、境内もさることながら白眉は、ホームページが秀逸な事。
女塚伝説を紹介する、美しい音楽とアニメーションは一見の価値あり。
末社の白山社を『健康の神』、稲荷神社を『商売繁盛の神』としたわかりやすくタイトなコピーもモダンで、200年ぶりに女性天皇を迎えることになりそうな21世紀を象徴する、未来志向の神社という印象を受けました。
このあたりはかつて『女塚』と呼ばれていたらしく、女塚通りという商店街があり、『女塚』という屋号を揚げるお店が軒を連ねていました。
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# by sweetmitsuki | 2005-11-16 20:36 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

妖怪天国

e0078674_4364934.jpg門前に蕎麦屋が軒を連ね、だるま市で賑わう深大寺(調布市深大寺元町5-15-1)には、深沙大王という聞きなれない神様を祀る深沙堂があります。秘仏なので見ることは出来ませんが、赤い体に髑髏のネックレスという、とんでもない格好をしています。
西遊記の中に登場し、三蔵法師を助けたというこの聞きなれない見慣れない神様が、何故祀られているのかというと、ここは昔、高麗からの渡来人が開拓した地だからです。
e0078674_4555344.jpg他にも境内にある釈迦堂には百済様式の白鳳仏があり、こちらは無料で拝観できます。名物の蕎麦もこのとき渡来人によって朝鮮から伝えられたといわれています。
e0078674_514573.jpg参道の入り口には妖怪ショップ「鬼太郎茶屋」があり、原作者の水木しげる先生の原画や、先生自ら世界中を訪ねて集めてきた妖怪グッズを見ることが出来ます。
e0078674_528169.jpgここでしか手に入らないレアなアイテムや、水木先生のふるさと鳥取の逸品も取り揃えてあり・・・あ、中世とは関係ありませんね・・・
関係ないついでにもうひとつ。
太子堂正面御拝の天井には幕末~明治の浮世絵師、河鍋暁斎の筆による竜の飛翔図が描かれています。暁斎の作品は維新の頃ヨーロッパに流出し、日本にはほとんど残っていないのでとても貴重な文化遺産です。
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# by sweetmitsuki | 2005-11-14 05:48 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback(1) | Comments(2)

天国と地獄

e0078674_1859989.jpgキリスト教世界にも『インフェルノ』があって、悪いことをすれば地獄に落ちるというのは世界共通のようです。地獄の事が日本で知られるようになったのはわりあい新しくて、平安末期の頃です。そういえば古事記や日本書紀には『黄泉』は出てきても『地獄』は出てきませんものね。源信という僧侶が書いた往生要集に、地獄のことがくわしく説明されています。
鎌倉時代になると地獄極楽や閻魔大王への信仰は大流行し、各地に閻魔さまを安置する寺が作られます。
閻魔大王は本当は道教の神様なのですが、地蔵信仰と結びつき、仏(?)として扱われています。道教とは中国から入ってきた宗教で、インドで生まれた・・・これじゃ仏教と変わんないか・・・よくわかりません。
e0078674_1928495.jpg東京ドームの裏手にある源覚寺(文京区小石川2-23-14)には鎌倉時代に造られたとされる木製の「閻魔王坐像」が安置されています。
あたりは高層マンションが建ち並び、閻魔堂も新しく建て替えられたもので、中世の雰囲気を満喫することはできませんが、運慶派の流れを汲む、彫刻美術品としても優れているこの像、社務所でお願いすれば無料で見せてもらえます。
こんにゃくを供えるとご利益があると信じられていて、群馬で農業をなさっている方が、畑で採れたばかりのこんにゃくをお供えしていました。聞けば新田壮のご出身だそうで、太平記の話題でしばらく盛り上がりました。
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# by sweetmitsuki | 2005-11-12 19:34 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

わかりやすいって素敵!

e0078674_1619764.jpg西遊記で有名な玄奘が天竺から持ち帰り、弘法大師が日本に伝えた仏教の経典は、「形のあるもの 現象というものは 時々刻々変化するものであって 変化しない実体というものはありません 実体がないからこそ形をつくれるのです 実体がなくて変化するからこそ 物質であることができるのです…」(柳澤桂子著、生きて死ぬ智慧 心訳「般若心経」より抜粋)という、とても難解なものでした。
鎌倉時代になると『ただお題目を唱えるだけで良い』という教えが広まり、これまで専門的な知識や時間に余裕のある人しか出来なかった仏教の信仰が、誰にでも簡単にできるようになります。
e0078674_16522530.jpgブログの出現によってインターネットがお気楽に楽しめるようになったようなものかしら?(違うかなぁ。)
e0078674_16525844.jpg池上本門寺(大田区池上1-1-1)は、そんな鎌倉時代を代表する仏教、日蓮宗の開祖日蓮が入滅した地に建てられた寺です。参道に続く商店街の喫茶店で、名物のくず餅を食べました。くず餅って元禄年間に池上で作られたのが最初なんだそうです。
『法華経を信じ広めさせるのは難しい』という意味の此経難持坂と呼ばれる急な石段を上ると仁王門が見えてきました。
残念なことに、1945年の空襲で建物の大半を消失してしまいましたが、五重塔や宝塔などは奇跡的に焼け残り、これら江戸期に作られた建物は今でも見ることが出来ます。
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# by sweetmitsuki | 2005-11-12 17:07 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

お金が増える魔法の泉

e0078674_13393659.jpg元との戦いで幕府は御家人に充分な恩賞を与える事が出来なかったため、御家人救済のため徳政令を出して、借金で失った御家人の領地をただで取り戻させようとした。しかしそうなると、御家人に金を貸す者がいなくなって、かえって御家人を苦しめる結果になった。(扶桑社刊、新しい歴史教科書より抜粋)
大抵の歴史の本を読むと、貨幣経済が成立したのは江戸時代に入ってからで、それ以前(例えば楽市、楽座)では物々交換だったと書いてあります。つまり鎌倉時代には、貨幣は流通していなかったわけで、なのに御家人は借金に苦しんでいただなんて変だなと思っていましたが、調べてみるとこの時代のお金は中国から輸入した銅銭で、幕府が造幣したものではなく、正確には単なる貴金属だったんですね。
それでも領地を御家人が失うほど、絶大な力を持っていたことは確かなようです。
e0078674_144987.jpg鎌倉には銭洗弁天という、ここの霊水でお金を洗うと、何倍にも増えるという言い伝えがある社があります。源頼朝が創建し、北条時頼が福銭を清めたのが由来とされ、都内では三鷹の井之頭弁天に同じ御利益があるといわれています。もちろん信仰は、貨幣経済が発達した江戸時代になってから流行ったのでしょうが、奈良や京都ではなく、貨幣経済が産声を上げた鎌倉にこういう信仰があるのが面白いです。この霊水、源泉掛け流しでないと効果が無いらしく、ペットボトルに入れて持ち帰る人はいませんでした。
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# by sweetmitsuki | 2005-11-06 14:06 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

タタリ神義興

e0078674_4465985.jpge0078674_4471254.jpg大田区矢口1-21-23、第二京浜に架かる多摩川大橋と環八とガス橋と多摩川にちょうど囲まれたあたりにある新田神社は、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞の子義興を祀ってます。
義興は義貞死後後醍醐天皇の南朝の武将として活躍するも、この地に程近い矢口渡で足利基氏と畠山国清によって謀殺されます。
ところが、基氏に加担した江戸遠江守はここを通ったとき、雷に打たれ落馬し、義興の亡霊に責められる幻覚を見ながら七日後に狂死してしまいます。
その後も謀略に参加した者達が次々に変死し、300を超える家屋が落雷により消失したので、村人は義興のたたりだと恐れ、祠を建てて祀りました。
現在の社殿は明治神宮の旧本殿を移築したものです。
e0078674_58185.jpg境内には畠山一族の血縁者が来るとうなり声を上げたという狛犬があります。また、江戸氏の所領喜多見の人が参拝すると鼻血を出すとつい最近まで言われていました。e0078674_5162234.jpg
更に社殿後部には義興を埋葬した直径15メートルほどの塚があり、この中に入ると必ずたたりがあることから「荒山」「迷い塚」などと呼ばれています。
また、ここには昔から決して神域を越えることがない不思議な篠竹が生えていて、江戸時代に平賀源内がこれで「矢守」を作ったのが破魔矢の始まりなんだそうです。
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# by sweetmitsuki | 2005-10-31 05:31 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback(1) | Comments(0)

智明蟄居録

e0078674_655894.jpg渋谷区代々木5-1-1にある代々木八幡は、伊豆の修善寺で非業の最期を遂げた源頼家の家来の荒井外記智明という人がこの地に隠遁し、看経修法の日々を送っていたとき、夢の中で大神から宝珠の鏡を授かったので祠を建て、八幡宮を勧請したのが始まりといわれています。
源頼家といえば鎌倉幕府二代将軍で、初代将軍源頼朝と北条政子の長男です。
この人、吾妻鏡には蹴鞠に夢中で執政を疎かにしたとか家臣の女房を寝盗ったとか散々なことが書かれてますが、母の北条氏と乳母の比企一族とで将軍家の跡目争いが絡んでいたのでその辺を考慮して読んだ方がいいかもしれません。
比企能員の娘、若狭局と頼家が結婚すると、あせった北条義時は北条が育てた政子の次男実朝を将軍に据えようと画策し、比企一族を滅ぼしたのち、頼家を伊豆の修善寺に幽閉して暗殺してしまいます。
実朝が三代将軍の地位に就いたのも束の間、右大臣就任の拝賀の式典を鶴岡八幡宮で行なった帰り、社殿の下の大銀杏の陰に隠れていた頼家の忘れ形見公暁に「父の仇」として殺され、公暁も北条氏に討ち取られ、これで源氏の血筋は潰えてしまうのです。
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# by sweetmitsuki | 2005-10-27 07:35 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(0)

蒙古来航②

e0078674_20591269.jpg元寇の頃、海を越えてはるばる日本へやって来たのは、いくさ船と陶磁器だけじゃありません。
幕府に召喚されて、大勢の禅僧が渡来してきました。
ですからこの時代に作られた禅宗の寺院はそれまでの和様建築と違い中国の宋の文化の影響を受け、屋根の棟が空を指すように反り、窓枠が花を模したアーチ型をしているなど、唐様建築と呼ばれる斬新な形をしています。
e0078674_232296.jpg東村山にある正福寺の地蔵堂は都内に唯一残る唐様建築の建造物で、都内唯一の国宝建造物でもあります。
e0078674_23235235.jpg都内といっても東村山ですから直接鎌倉まで行ったほうが近いかもしれませんが、鎌倉では唐様建築の寺院はほとんど消失してしまい、現存しているのは円覚寺の舎利殿だけで、しかも現在非公開なので塀の外からしか見ることが出来ません。
それにやはり鎌倉は見所がいっぱいありすぎてつい目移りしちゃいますが、こちらはそんな心配をせず、時間の許す限り好きなだけ見ていることが出来ます。
e0078674_23223279.jpg境内には新田義貞の子義興が来世を願うために生前に建てた貞和の板碑があります。都内最大級の大きな板碑ですが、どういうわけか、いつの間にか前川の橋に使われ、「経文橋」とか「念仏橋」と呼ばれてました。江戸時代からこの橋を動かすと疫病が流行ると恐れられ、昭和二年に改修のため板碑を撤去したところ、本当に赤痢が流行ったので橋畔で法要を営み、今の場所に落ち着いたそうです。
e0078674_22511774.jpg実際に板碑が使われていたという経文橋へ行ってみましたが、緩やかな小川に掛けられた小さな橋で、わざわざ石橋を架ける必要はないと思いました。と、いうことはやっぱり権力争いの覇者足利氏のイヤガラセなのかしら?
現在はコンクリートの橋が架かっていて、傍らに「供養塔」と書かれた碑が建っていました。
他にも唐様建築のお堂は山梨県の清白寺の仏殿が有名ですが、現存する唐様建築の寺院のほとんどは室町時代のもので、鎌倉時代のものではないんだそうです。どうしてかはやっぱり分からないのですが。
江戸時代に入ると花頭窓等の様式は残りますが、屋根の軒は雨水が緩やかに流れるような自然な勾配になり、唐様建築は廃れ、現在あるようなお寺の形になっていくのです。
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# by sweetmitsuki | 2005-10-14 23:35 | 史蹟で歴史のお勉強 | Trackback | Comments(2)